昭和47年4月1日 朝の御理解
                                    中村良一
御神誡
一 真の道におりながら真の道をふまぬこと。



真の道におりながら真の道をふまぬこと。真の道という事は、どういう道を真の道というのであろうかと。御道の信心をさせて頂きますと、真ということが沢山使われます。えー、真心とか、真とか。信心と言うても、おー、真の心と用意してあります。信心する、うー、ものの、信心する者の、真の信心になれよという事を言ってありますね。えー、結局、信心を頂いておって、信心をさせて頂いておりながら、信心にならないということ。信心するものは、何事にも信心になれよと仰るので、ね。ただ、お参りはしておる。拝んではおる。けれども、信心に、いー、に、なっていない。生活と、いわば、遊離した信心。離れておる。拝む時は拝む時、仕事しよる時は仕事しよる時、もう、心の状態というのは、全然、違うわけです。ですから、言うことも、行うことも、また違う。それでは信心にならない。本当に、えー、銘々のいき方の上に、反省させていただいた上にも反省させていただきませんと、んー、真の道を、おー、踏み外しておるように思います。信心の、ま、祈りの内容が、えー、お礼、お詫び、願いという風に言われますが、もう、本当に、お礼を申し上げるところにお礼を申し上げ。尚且つ、うー、足りないところばっかりであることに気付かせて貰うて、お詫びをして行くといういき方は、私は、これは本当のいき方だと思うですね。真の道だと思うです。
信心を願うことだけが信心のような間違い、考え違いをしておる人があります。ね。信心させていただいて、段々、お礼を申し上げるということの、おー、大事なこと。また、お礼を申し上げねばならない事のおいい事。目に見えるおかげより、目に見えぬおかげがおいいと仰る。その目に見えぬおかげを、所を、おー、分かっていくと。そこで、お礼の信心。ね、そして、大抵、お礼を申し上げておるようであっても、お礼の不行き届きであること、お礼の足りないことに気付かせて貰うて、お詫びをして行く、そういういき方。真の道というのはね、私は、そういう、うー、いうならば、あー、本当の意味において、感謝とお詫びが徹底して、えー、なされていく生活。そこに、真の道は、自ずと着いてくるものだというふうに思います。真の道におりながら、真の道をふまぬこと。ね。信心をさせて頂いておりながら、信心にならない事ということなんです。だから、信心がない間は、お礼を申し上げることも致しませんし、また、どこをどうお礼言うて良かか分からない。どこをどうあれすれば良かかすら分からない。それを、信心させて頂くことによって、段々、それが分かってくる。そこで、色々と、まあ、工夫がいるけであります。ね。えー、心で有難いと思うておるから、もう、それで良いというのは、それは、本当に有難いと思っていないですね。心で有難いと思うた事が、形に現された時に、本当の有り難いという事。もう、お礼参りもしなければなりません。ばってん、心では、何時も有難いと思うております。というのは、私は、本当の有難いと思うておるのではないと。そこで私共が、一番、なかなか、心から、(咳が出る)まあ、心から入っていく人もありましょうけれども、形から入っていくといういき方があります。まあ、私共は、大体その、芯がないものですから、形から入っていく事がおいいです。ね。えー、例えば身体が、えー、汚れておりますと、んー、やっぱり、心まで汚れとるような気が致します。そこで、お風呂ども入ったり、お水ども頂いたり致しますと、いわゆる、形の上に、綺麗になるだけですけれども、何とはなしに、心までが清められたような気が致します。ですから大事ですね、形を、形のことも。いや、実を言うたら、形からの方が、私共は、入りよい。形の上でこうやって、私共のように、紋付袴を着けておると、何とはなしに、心までが、ちゃんと、こう裃着けたような気持ちになれる。ね。普段着でお参りをするのと、ちょっと、お参りの着物に、着物を着替えて、ね。お参りをするのとは、ね。形は勿論、違いますけれども、心までが変わってまいりますような気がするでしょう。皆さん、そう、ね。例えば、ほんなら、お手洗い、いー、で、手を洗わせていただく。神様へ向かうのですから、やはり、清めなければならない。ね。手を洗ったり、口をゆすいだり致しておりますと、ま、何とはなしに、えー、清まったような気がする、心がする。そういう意味で、私はあの、手を洗ったり、口をゆすいだりすることも大事だと思うですね。まして、それが、ほんなら、あー、ね。ご神前に、御祈念でもする前には、先ず、お風呂にでも入ってから、と言うのは、気分が違います。ね。そういう、例えば、形の上で、上から心の上に入っていこうといういき方。または、心に頂いておるものが、形に現れてくる。その辺のところが、もう心には思うとる。心はそうだと、という人があります。もう、心には何時も感謝しとりますと、だから、と言うて思うとるかも知れませんよ。嘘ではないでしょうけれども、それは、私は、本当の、いわゆる、真の道ではないと思うですよね。心に、本当に思うておることを、有難いと思うておることをです。ね。形に現す。た時に初めて、私は本当に、有難いんだということが言えるのではないかとこう思う。または、真の道とは、そういう道だと。心に有難いと思うてさえおりゃ、それで良いというのが、真の道じゃない。真の道というのは、ね。本当に、有難いと思うておる。それをお礼参拝ならお礼参拝。御用なら御用、ね。奉仕なら奉仕に現された時に、初めて、私は、それは、そういういき方が真の道だと思う。ね。そして、ほんなら、ギリギリのところをです。なら、その真の道を歩かせて頂いたり、真の道を行じておるのでございますから、言うなら、何事にも信心にならせて頂いておるのでございますから、真の道が開けてくるという事は、真のおかげが開けてくるという事に繋がらなければなりません。真(じん)のおかげということ。ね。
金光様のご信心を頂いておれば、私共は、真の信心をしておると、は言えないわけです。なるほど、金光様の道は、真の道を説かれてあるというだけのことであって、それを、私共がいただいて、行の上に現してこそ、初めて、真の道を行じておるという事になるのです。
えー、昨日は、あー、お昼から、マルショウの方たちの、おー、ここのマルショウが、発足してからというと、まあ、昔から、マルショウはあったんですけれども、まあ、ここが教会になってからのマルショウは、布教所当初からですから、丸五年になりましたわけです。それで、まあ、五十年の、おー、記念行事が、昨日から今日にかけてあっておるわけです。昨日も、昼から、色んな、あー、行事がやっておりましたが、あー、夜の八時の御祈念にあわせて、えー、上申式というのがございました。私は、本当に、ここからそれを見せていただいたり、拝ませていただいたりしてから、こんな素晴らしい事をするのなら、本当に、御信者さん方の一般に、どうして呼び掛けなかっただろうかと思うた位でした。昨日は、三十一日ですから、月末で、何時もあの、月末には、あー、御祈念の後に、いー、親和会が一時間余り、何時もここでございます。ただ、そういう方達も、お参りして来たんですけれども、もう、親和会だけには、(なには  を ですから?、)とうとその、上申式には間に合わん方が多かったんです。はー、これだけ立派な、いわゆる、形式なのですよね。けれども、形式の、形式がまた、素晴らしいということ。えー、とりわけあの、新入会員の、おー、誓い、神様への誓いがございます。電気を全部消しましてね。ほっで、ここから、銘々に、あの、ロウソクの台にロウソクが立っておる。ロウソクを一本づつ、みんな持ってこう入場してくるんです。で、そのロウソクをご神前に一本、一本立てましてね。そしてその、神様へのマルショウの誓いの言葉を一人一人が、こうやってやるんです。小学校の三年生からおるのですから、んー、ね。まあだその、こういう事をすることも良く知ってないし、誓いの言葉なんかも、まあだ、良く覚えてないのですけれども、たどたどしいながら、あー、先輩の人達に誘導され、また、教えられてから、あの、おー、あります。もう、それぞれの、おー、おー、ま、色んな行事があー、そうして、三、四十分かかりましたでしょうね。最後にあの、おー、新入生の、おー、新入会員の、おー、父兄の挨拶が、あー、善導寺の久保山さんが代表でち言うが、一人しか来とりません。代表、ですから、あー、そうか、松村さん達もおんなはったけれど、久保山さんが代表で、えー、挨拶をされましたが、ほんとにそれを、おー、挨拶される久保山さんも、感激一杯で、挨拶をしておられました。聞くほうも、本当に感激いたしました。本当に、ただ、マルショウの、四、五十人ぐらいな人達で、それを聞いたり、見たり、んー、拝んだりするのには、本当に勿体ないと、ほんとに、もう随分前から、何なら、あげん毎晩毎晩遅う、患部だけが集まって、色んな準備を、に大童でしたが、あげん準備があるだろうかと思うておりましたが、なるほど、あれだけの事をするなら、もう、言うならなんと申しましょうか、一分の、おー、隙もないように、もう、仕組まれておる筋が、ずーっと進められていく。もう、芝居で言うならば、もう、稽古に稽古を重ねた役者達が、演技をしておるように素晴らしい、いうなら演技であります。なるほどと、私は思いました。えー、まあ、リーダーでありますところの、おー、光昭が、途中で二回ほど、ね。一生懸命、色んな準備やらをあれしとりますのに、えー、もう、投げ出そうかというごたる気持ちになった。もう、親先生、人間の限界という、もう、ギリギリのところまで来ておりますと。これから先は、お取次ぎを頂いて、おかげを頂かなければ出来ません。と言うて、お届けに参りましたぐらいに、一生懸命だったんですよね、やはり。ですから、本当に、えー、わずかのマルショウの人達のために、えー、何時も、十人ぐらいな幹部の人達が、これだけのことをすることのために、色々、おー、な行事がある。その行事が、色々進められていく、その中心になるものは、どういう事かと言うと、ここに掲げてあります、うー、の事がテーマでございました。「有り難う、現そう、有り難うは私から」というテーマでございました。これも、おー、もう、そういう準備にかかります一番初めに、五周年の記念に、の、(咳をされる)会の、どういう事をテーマにしたら良いかと言うてお伺いに来ました。さあ、どういうことかと言うて、信心は、子供だから、年寄りだからと言うて同じなんだと。だから、結局、結局は、有り難うならせて頂く稽古であり、マルショウは、その有難くならせて頂く、いわば、その基盤の時代なんです。だから、まあ、えー、適当な、あー、文句は作って、それをテーマにしたらよいけれども、その、おー、若いから、年寄りだからという、そのあれは一つもない。結局は、有り難うならせて頂く稽古だと。そしたら、実はその、おー、本部のほうでの今年のマルショウのテーマが、その、そうだそうです。偶然その、親先生が言われることが一致しましたから、そんなら、こういう事にしましょうというので、こんなテーマになったわけです。それで昨日、最後に、いー、私に話せということでしたから、まあ、話を聞いていただいたんですけれども、色んな植物がね、この芽を切っておる、いわゆるあの、マルショウのことを、双葉、双葉と、おーあの、子供のことを教祖様が仰っておられた。双葉の氏子とこう仰っておられる。ね。双葉たちがと、子供達をさして仰ったと。それで、あのうです、まあ、双葉、芽が出たといったようなのを、色々な意味で、竹もありゃ、木もあるといったような風にして頂いたとか。ですから、それが育つという事は、いうならば、自然にほっておっても、自然が育ててはくれるだろう。まあ、信心は無くても育つのは育つのである。ね。けれども、育ちようがあるのだ。いうならば、真っ直ぐに育たなければならない。そのために信心があるのだ。同時に、身体だけではない、肉体だけではない、心もやはり、伴うて育たなければならない。身体も、すくすくと伸びなければならないように、心もまた、すくすくと、しかも、真っ直ぐに育たなければならない。ね。そのために、いわば、子供のときから、信心の稽古をしておこうとこう。いうなら、今日の御理解から頂きますと、真の道におりながら、真の道をふまぬこと。真の道を教えてもらい。そして、子供ながらにも、真の道を踏もうということ。そして、全ての、自分の周囲の事柄に、有り難うを言わせて頂けれる内容を作っていこうと。これは信心はなく、これは、あー、昔の人の言葉に、ね、四恩という事を言う。天の恩、地の恩、ね。親の恩、国の恩、ね。まあ、これを、まあ、大恩、師恩と、大きい恩ということ。ね。天地に対して、または、親に対して、または、お国に対して、いわゆる、有り難うございますが、心から言えれる稽古。考えて見ますと、あー、それだけのことではありません。それこそ、水一杯の上にでも、一粒のお米の上にでも、ね。やはり、そこに、恩を感じさせて貰うて、その恩に感じるところから、有り難うございますという、うー、言葉も、また、生活態度も感謝の心で、それが行われる。ね。と言うて、ま、昨日、私、そんな意味の話をさして頂いたんですけれども、ね。真の道とは、そういう道だと思う。ね。いうなら、神恩報謝の道。それで、心で有難いと思うております。有難いことが分かっておりますというのは、それは、本当の真の道ではない。心に思うた事を、形に現すということが真の道だと。(咳き込まれる)ところが、私共が、そういう真の道を、ほんなら歩こうと思う、ね。そこから、これは少しは、ね。形式のようにもありますけれども、形式もまた、重んじられなければならないという事になります。
日々、信心の稽古を、このようにさせて頂いて、そして、お礼を申し上げること。そして、お詫びを申し上げること。ね。その、お礼を申し上げることの多いことに気付かせてもらい。そして、お礼を申し上げておりますけれども、申し上げても申し上げても、足りないお詫びをさして頂く。そういう道を真の道と、今日、私は皆さんに聞いていただいた。ね。そこで、私共はです、そういう、真の道におらしてもらうのが、いよいよ、真の道を踏ませていただく、まあ、事をです。形式からでも、入らせて頂かなければならない。ね。そのために、例えば、御神前に向かわせていただく時に、手を洗ったり、口をゆすいだりすることも、これは、心が清まっておれば、それで良いのですけれども、やはり、形の清めを致しておりますと、何とはなしに、心まで清まった気がする。お風呂にでも入らしていただいて、ね。身体の垢を落とさせて貰う。そして、御神前に向かうと、心の中までとれた気がする。これは、形式から入るわけです。ね。日々、先日、えー、福岡の、おー、堀尾さんが始めて気が付いたようにお届けをされたんですけれども、「親先生、ほんとにあの、朝参りをさせていただきます。」または、夜の、ここは、月次祭は夜ですから、お月次祭に、また、おかげを頂かせてもらう。そして、昼にまた、色んな行事がある時に、また行事に出させていただきますけれども、その、行事のときに、合楽に参りますこと、お月次祭に参りますこと。毎日のお参りでありますことは、もう、全然その、内容が違うことにはじめて気が付きましたと言うておられます。違うんです。ね。もう、どうせこれが、月次祭に参るきん、朝の御祈念には参らんでん良かち意うごたることは、絶対にあって良かろうはずがないですけれども、これは、勿論信心の過程です。ですから、そこんところを私が、お詫びをするとこはお詫びをさして頂いてです。今日、朝の御祈念にお参りするのが本当でございますけれども、夜の御祈念に、お礼参拝をさしていただいて、ね。えー、という、ま、お詫びがいるわけなんです。ね。それを当たり前のような心では、真の道をそれておるわけです。ね。今日は、そういうことで、えー、マルショウの五周年記念の、色んな催しが昨日から、今日に引き続いてございます。今日は、あー、これも、いわば、マルショウのおかげでございますけれども、これは、ここが教会になったときから、本部のほうから、四月一日の、奨学祭という事を言うて来ております。祝詞までちゃんと、こういうふうな祝詞を上げろというて、えー、きておりましたけれども、なかなか、あー、私、その事に踏ん切りがつかんでおりました。ところが、今年、その五周年記念に、例えば、昨日から今日にかけての、いろんな行事の中に、奨学祭を、おー、奉仕していただきたい。そのためには、夜の、お月次祭を、おー、大祭並みに十時半からしていただきたい。そして、そのなかに、お月次祭に併せて、奨学祭。いわゆる、小学校に入学、中学、そしてまた、高校、大学というようにです。入学した方達を中心にして、学問の道を、いよいよ極めていこうとする人達が、特に集まらせていただいて、いわゆる、学の勧めですよね。教祖様も、その事を、知恵、分別を願えと仰っておられますようにです。これは、本当に、真の道にあるもののためには、当然、奨学祭は、早くあらなければいけないと思われる内容を持ったお祭りなのです。そのお祭りを、今日の、おー、一日の月次祭に併せて、ただ、時間が、午前中、大祭並みに十時半から行われることになっております。ね。ですから、もう、朝の御祈念に参ったからじゃなくてその、月次祭にお参りをさしてもらうだけじゃなくて、今日はその、奨学祭というお祭りがあるんだから、その奨学祭にお参りをさせていただくということ。そげんしよるならもう、あんた、お参りにかかっとらにゃんたいち。その、かかっとらんならんほどしに、おかげをいただけたら、これが最高なのである。急がしかごとばっかり、バタバタしとったっちゃ、それがラチがあかんなら、どうなりますか。ね。これは皆さんが体験されることでしょうけれども。「今日は忙しいから、今日のお月次祭には御無礼しよう。」と。ね。ところが、ほんにお参りしときゃよございました。おまいりされじゃったら、こういう事になりましたといったような、その、いうならば、はか、破壊感。ね。本当に、お礼参りならお礼参りにかかっとったっちゃ、おかげが頂けるのが御道の信心。ね。ですから、本当言うたら、お参りにかかっとれるほどしのおかげを頂けるところまで、お互いの信心が進ましてもらわなきゃいけんのです。(にかいっかの信心?)、それでは、私は、真の道にはそれると思う。真の道というのは、朝の御祈念にも信心の稽古に通わせて頂いたが、また、十時から、お祭りがあるなら、そのまた、お祭りにもお参りをさせていただくお繰り合わせを願うて、そうさ、真の道を踏ませていただこうと願うところ。それは、場合によっては、形式になるかもしれません。なら、お祭りでも、一つの形式なのです。けれども、あの度々、おんなじ形式のお祭りではあるけれども、お参りをさせて頂いておるとです。やはり、何とはなしに、お礼のお祭りだなーと感じさせて貰うでしょうが。ね。そのようにしてです、私は、真の道というものは極めていくものであり、また、踏んでいくものだと思います。いや、そげん参りよる暇はなかと。いう人と、本当にお参りにかかっておる人とです。五年なら五年、十年なら十年経った時に、見てごらんなさい。ね。そうにゃ、がまだした人は、そうにゃ残っとるごたるけれども、残っとらんです。お礼参りにかかっておる人のほうが、かえって残っとる。なら、本当の真の道を踏むことが、どのように人間として本当な事かという事が分かるでしょうが。先ほど、子供達にお話を申しましたという、ね。私共が、ひっくるめて、ね。天地の御徳を申します中にです。例えば、それを、昔の人は四恩と言う。天恩、天の恩、地の恩、そして親の恩、国の恩と。それだけのことではない、ね。自分の周囲のどこを見ても、眺めても、お礼を申し上げねばならないことばっかり。その、お礼を申し上げなければおられない事がです。段々、広く深く分かっていくということが信心なのだ。今まで分からなかったことを、深く分からせていただく。そこで、お礼を申し上げても、お礼を申し上げても足りんのであり、そこで、足りぬ、またお詫びをさせて貰うてです。そこに、毎日をです。ね。足りないところは、お詫びによって許されて行くいき方。そういう道を真の道を踏んでいくいき方であり、真の道におる者のあり方でなからなければならないと言うように、今日は、真の道におりながら、真の道をふまぬことという、御神誡のなかからです、ね。今日の、真の道を、おー、という事をです。まあ、あー、いうならば、形式、ね。形から入っていくといったようなことを中心に、聞いていただきました。ね。身体を清める。不思議に、身体を清めておりますと、これは、形の上なのですけれども、心までもが清まった思いが致しますようにです。ね。なるほど、お祭りは、ある意味においての形式。けれども、それによってです、本当の、心の辺まで繋がっていく、ね。お礼の心が湧いてき、それを、形に表すときに、はじめて、お礼のお祭りという事になる。それが、そのまま、真の道を踏んでいくのであるという風に聞いて頂きましたですね。どうぞ。